産業社会中心となって、家庭や地域という場で発揮される女性の力はオフィシャルな評価を受けない。天然資源をGNPで評価しないように、産業社会の尺度ではかれない家庭や地域というプライベートな場を中心に発揮されてきた女性の力は、地域や家庭の有史前からの資源のように在ることが当たり前に見なされ改めては評価されにくかった。農村でも町でも、家事雑事を主に任される「母」や「嫁」の存在は同時に家業の担い手である。
●近代化と行商
私の居住する我孫子市を通る常磐線の展開を見ながらどのように嫁たちが商品経済に対応しイエの慣習を変えていったか考えてみたい。
当時、文化とかけ離れた純農村の我孫子に常磐線の敷設に伴って白樺派の中心的作家たちが都会から何人もやってきたのと、行商が盛んになっていた時期が一致するのがわかる。鉄道という強力な交通機関によって、物や人、文化の流れに変動が起きたことがわかる。行商研究の石川武彦教授の区分によると戦前の行商は四期間に分けられているのでそれも加えてみた。
戦前:カラス部隊、籠背負い部隊……「行商」組合員
戦後:風呂敷部隊……戦争未亡人・疎開者の非組合員が“闇屋”、
“カツギ屋”と呼ばれて風呂敷、リュックや手提げ籠で
●「行商」女性が生まれた事情
・東京では都市住民が増え、農家が減っていった
・常磐線の開通
・
一家の主は男性であり、耕作も男性が実権を握り取り仕切っていた。男は偉いと育っているので、物乞いのように軽蔑されるので農産物を持ち歩いてのは行商は恥ずかしい事なので一家の主には出来なかった。当初、行商にいく妻の荷物も恥ずかしがって運んでやる事もなかったほど。
・
男尊女卑の社会から出られ、自分の稼ぎで好きなものが買える開放感があった。
・経済的に家族の大きなよりどころになって家庭内での自分の地位があがる。
・
体力的に年齢的に農業が出来なくなった女性でも荷担ぎで売り歩くことは可能だった。(しかし、無理をして亡くなったり、重い荷物を担ぐため心臓疾患になったり、行った先で出産や流産の人もいた) ・家庭の主婦が主な相手なので口べたの「おじちゃん」より商売がしやすい
・
女性の方が金銭感覚が現実的で、ちょっとかいせでは飲み代にしてしまうこともない稼げるならいくらかでも家族の為に稼ごうと考えた。
・戦争未亡人、引揚者の生活を支えた
●行商の収入
昭和2〜5年で一日2円前後の収入で三回も往復するものは10円の収入があったという。男が弁当持参の土方仕事の日雇いで80銭。当時の大學出のエリートが45円の月給であったのだからそれを凌ぐ者がかなりいたと言うことになる。一般農家の収入は年収を日割りにすると2銭程度で、それすら上等な部類で肥料の代金を払ったら収入がプラスにならない所帯もあった。そんな状況で、高収入を得るようになった農家の主婦は家庭での発言権が強くなり、農作物も業商に合わせて作るなど男たちの協力を取り付けるまでになっていく。 ちなみに、米一俵85銭の儲け
●行商の実態
・柏、我孫子、湖北、木下、市川、船橋、幕張、稲毛方面から
午前5?8時に上京
午後12−3時 帰宅
午後3−6時 荷ごしらえ、畑仕事夕食後荷造り
午後9時 就寝
・行商先 本所、南千住方面一帯、横浜方面にも
・農繁期は一、二ヶ月休み田植え、稲刈りをする(人手を頼むと高くつくため)
・中農層の年輩女性、専業者(行商を生業とする)
・・・我孫子は東京に行くのが便利なため専業者の割合が比較的多い。
・商品、切符が買えないなど最下層の農民は行商には行かなかった。(上層以上の農家ではお金のために土地を離れて売り歩くなどはしない)
・年齢は20?70代と幅広いが、家事や育児をまかせられる人がいる。
・販売した品:時節の野菜、鶏卵、鶏肉、ウナギなどの鮮魚、餅、米
(自家製品ばかりでなく近所の農家、八百屋から仕入れ売れきれるまで歩く)
●「行商のおばさん」酒井いとさんからの聞き取り(1999.10.13)
酒井いとさんという現在でも行商をつる女性がいること知り、酒井さんの現在の商いの場である大塚駅北口で聞き取り調査への協力をお願いした。行商研究の石川武彦教授の区分による戦前の行商とは社会状況が違う戦後の行商と位置付けられるが、行商の様子、嫁姑関係の実際をつぶさに聞く得難い機会であった。酒井さんとて、生活に窮して行商に出たという状況は同じである。以下は、本人からの聞き取りをまとめた。
昭和34年、26歳から行商をはじめる。当時、上総一ノ宮からの行商女性はおよそ350人いたが昨年85歳の人がやめて一人になった。行商は「籠しょい」と言われ見下されたが、自分の子供4人と親戚の子供2人(母親が亡くなったため)を育てるため日銭の入る行商をはじめた。
20歳で嫁いだが姑と折り合いがわるく実家へ帰ったことも何度となくあった。いざこざで視神経が犯され視界の半分しか見えなくなるような変調をきたし病院通いをしたが、行商で姑と顔を合わせなくなってからは、病気になることもなくなった。現在66歳の小柄で華奢なおばさんだが、背中に50キロ、両手で20キロほどの荷物を持ってくるという。お得意さんがいるので売れ残りもなく、その日のうちに売り切ってしまう。
「子供たちも皆、一人前になっているが、自分の裁量で商え、収入もあって定年がないし、いろんなお客さんがいて、面白いからやめない。今でも現役、相変わらず「おばさん、おばさん」と信用されて商売できる。張り合いがある。信用ができるまでには15年はかかった。田舎は、昔はお金がなくて困ったものだが、今は一家に4、5台は車があるのはざら。年金ももらっているし、時々旅行にもいける。姑にはつらい思いをさせられたけれど、あの時代の姑にはそんな楽しみもないし、お金もなかった。今は、嫁もこちらの言うことなど聞きもしないが、自分で好きなことが出来るので楽しい。上総一ノ宮から大塚まで定期で通い、年末年始や雪や雨降りを除く毎日、月〜土曜 11:30−13:30で商いするが、いつも売り切ってしまう。この間のおいしかったと告げる人が何人もいた。もし、残っても持っていけば買ってくれるお客さんまでいるという。籠を開けると、あっという間に人だかりが出来るのでその言葉もうなずける。けしてスーパーより安いという値段ではないが、スーパーにはない温もりと野菜の新鮮さ、生産者・運搬人の顔が見え安心で美味しいのである。
花屋の青年が、とおりがかりに声をかけたり、中年女性だけでなく、男性のお客もくる。皆何かしら、おばさんとの会話を楽しんでいる。おばさんが気軽に声をかけるし、何日にくるからOOを持ってきてと注文をしていく人、ちょっと用事をしてくるから預かっておいてとか、おばさんの電話番号を聞いてあとで注文を連絡をするという人がひきもきらずである。「不況なんて私の商売には関係ない。いつも同じように持ってきたものは売れきってしまう。」という。
そばで、みていると大学生のような若者までおばさん挨拶していったのに実は驚いた。今の者はドライで、わざわざ60過ぎのおばあさんに挨拶するとは思わなかったからである。おばさんの存在は、対人コミュニケーションの激減する都会の中でオアシスのようだった。おばさんのやさしい笑顔は、自らの力で働いて6人も立派に育てたという自信に裏打ちされて、今なお現役だと逞しい。現代病のストレスなど微塵もみられなかった。
今はいいと、酒井さんはいう。昔は半歩足りとも男の前を歩くことは考えられなかった。「白いものを黒」と姑が言っても逆らうことならなかった。自分の意思で行動できるのは一番いいという。「戦前の憲法で女は身動きできなかったからね。今はいいよ。あんな時代はいまの人には想像もつかないでしょう。」と酒井さんのそばで「本当に、今の人には考えられないでしょうよ。」と相槌をうつ同年令のお客さんがいた。
●現在も続く慣習による女性の農業従事への壁
農業は、古代からつづくもっとも古い産業である。農業労働は自然の営みに等しく貨幣で試算されるものではなかった。その習慣を引きずっているためか、働きに応じた報酬は受け取っていないといえる。1996年に発行された「家庭と地域社会」によると、米どころと言われる省内地方で現在は農業就労者の6割を女性が占め、基幹的農業従事者としても5割が女性である。しかし、農業所得からの取り分は、平均して4割弱しか得ていない。農業者年金への女性加入者は、たったの4%に過ぎない。労働力として当てにされながらも、女性には報酬も補償も薄い。
また、農業組合員に占める比率が12%に留まっているのも見逃せない。農業就労者の割合が6割であるのと裏腹に、地域の政策決定への場へ参画も制限されている。実際の労働の実体を評価しにくい、男女の伝統的役割分担が変わらないままの構造になっていると言える。
ムラの公的な寄り合い、共同作業になどに女性が出ていくことは半人前にしか認められず、女性が共同作業に労働力を提供した場合でも半人前の出不足金を取られる地域も少なくなかったのだから、男性が公的にイエを代表するという長い慣習は一夕には変わっていない。現代においても経営主体はあくまでも男性にあり、田畑に何をどのくらい作り、肥料をどのくらい購入し、自宅備蓄にどのくらい残して売るのかなど決定するのは男性というが変わっていないのは驚くにあたらないのだろう。なぜ、労働の実体はかなりの割合で女性に負担させながら、相当に評価されないのであろうかと考えさせられる。
●戦前の農村生活の実情と女性の境遇
多数の農家の主食は米麦混食、動物性蛋白、脂質の摂取がきわめて低い。家計費の4割以上が食費となり、家計費の4割が現物支出。食べる事にやっとで被服、娯楽に支出する余裕はない。食べ物以外お金をかけられないので、被服や住宅も非衛生であった。ガス、水道は入っておらず、水汲みは女性の手間と重い負担のかかる仕事であった。井戸水は水質が悪く、夏季には伝染病も流行した。農村住民の体位は都市住民の体位に劣り、疾病が多く死亡率も高かった。農村には医療施設が少なく、また医療費を捻出できない家庭も多かった。
昭和35年国勢調査によると、全国平均世帯員数は5.13人である(グラフ3)が、農家はそれより多く、三世代を含んでいたと思われる。主婦の食料の采配いかんで年越しの米があるや否やが決まるような大変な事情だったので若い嫁の出る幕ではなかった。姑が買い物や食事の内容を決定した。しかし、女性に農業経営の発言権はないばかりか、家計管理の実際権も家長の男性にあった。女性の労働に大きく依存しつつも、女性の地位は低く、嫁は家の中でもっとも低かった。
農家で地位の低い嫁は貧しさの最たる犠牲を引きうけた。農業労働の中心的担い手であり、出産・育児を繰り返しながら家事万端をこなし、長時間激しい労働に従事した。平均3〜6回妊娠し、妊娠中も農業労働にたずさわり、過度な栄養不足であるため流産死産が多かった。農村には助産婦や医療機関がなかったり、医療費を払う事もままならないので、出産による女性の死亡率は同年齢の働き盛りの男性より高かった。また、こうした事情で早産が多く、栄養が不足し乳児の死亡率も高かった。
●嫁姑問題と女性の地位
農業には肉体労働のきつさがあるが、それを上回る作物の成長を見守る喜びや収穫に喜びを感じている。農家の女性が農作業における評価の不均衡や伝統的な男女不平等に不満ばかりを感じているかといえば、農作業に携わることに喜びややりがいを見いだしている。嫁たちが負担と感じるのは肉体労働のそれよりも、嫁姑関係でつらい思いを強いられていたことであった。嫁姑関係が、彼女たちの最大の重石であり、それに比べれば労働評価うんぬん程度はささいな事象でしかなかったのかもしれない。
かつての農家は大家族で嫁に来たものの孤立無援、ひたすら家風になじむことを要求され姑の采配に絶対服従であった。自分で産んだ子も、家の子として姑が子育てを取り上げられた格好になり、姑は甘やかして物を与えるが、嫁は自由に使えるお金がなく子供に何も買ってやれない。婚家の生活様式の違い、大家族の人間関係のストレス、遠慮してものも言えない、自分の手で子育ても許されない状況など精神的な苦悩は数知れず、そこへ持ってきて実家からのの支援もなく心細い思いを続け、つらさのあまり自殺した農家の嫁も少なくない。
前述の酒井いとさんは、戦後の行商者であるが、姑と上手くいかず婚家を家出した事は三度あったと話してくれた。女たちは、みんなそんな状態だったから我慢するしかなかったのだと言われた。書籍による農村調査には、嫁姑問題はさしてとりあげられていない。「しゃくし渡し」などと民俗文化としてのどかな光景が取り上げられていればまだ良い方である。じっさい、農村の女性たちのこれまでの状況を考えるのに見逃してはならない問題ではないかと改めて考えた。フィールドワークで農村調査を行なった者が多くは男性であった事を考えれば、深く思いをはせることもなかったのかもしれない。
今日では家事従事における世代分担は大きく変化している。兼業農家が増え、嫁が農外労働に従事することも増えて、家庭内で姑が采配を振るうという伝統的な主従関係がくずれた。今日の農家の嫁は、パートや農閑期の農外労働によって自ら現金収入を得ることが出来るので姑の財布を当てにしなくても良くなって、嫁姑問題の苦労はなくなっている。
近代化した産業社会では、労働力を提供することで若い嫁たちも収入の道が開け伝統的な主従関係から抜け出すことが出来るようになった。「行商」としてムラから重い荷物を背負って出ていった嫁たちにも同じ思いがあったのは間違いない。経済力を握ることで、夫に作付けの注文を出し、子供に好きな物を買ってやれ、中には大學に行かせるという農家の嫁の立場では途方もない目標を持つことも可能させた。嫁という「従」立場から抜け出る自由を得る事が出来た。
●農村から都会へ
現在は1割程度の農業人口も、戦前まではほぼ5割以上であり、「もはや戦後ではない」と宣言された昭和30年に4割台になる、経済成長に伴いその後5年は特に農村をはなれ都会に出ていく者が増え農業人口は激減、農耕の機械化が進み女性や老人の手に委ねられた「三ちゃん」農業となった訳である。
日本における民族学の祖、柳田国男は千葉県我孫子市布川で少年期の数年を過ごしたことがある。利根川と手賀沼に挟まれた我孫子は水害の発生しやすい土地柄で貧しく子供もに十分な食べ物を与えられない家が多かった。そこで、柳田は農家で嬰児の間引きが行われているのを知る。兵庫県の生家のあたりで見かけた子沢山な村の情景はなかった。地域による生活の違いをまざまざと見せつけられた事が、柳田の民族学への興味の発端となったという。
我孫子における潅漑工事は昭和中期に至るまで行われるが、完成するまで毎年のように洪水に襲われて農業は壊滅的被害を受けている。掛け売りの肥料代も支払えなくなり、土地を手放すなどが起きている。それでも、我孫子の豪農層は干拓事業に積極的に取り組む篤志家いた地域や、凶作の場合は手心を加えるような概して良好な地主・小作の関係があった。しかし、一般には近代産業化で工場は機械化されていっても、大地主は、地代の取り立てで悠々と暮らせるので機械化を率先することもなく、農民の重労働は改善されず税金の取り立てが加わり貧しさが増し、大地主は更に巨大化した。冷害の被害や天候の影響を受けやすい地域の農民たちはなんとも悲惨であった。柳田は東京大学大学法科を卒業後農政官として、当時の日本の基幹産業であった農村の実態を調査し改善に力をつくした。特に柳田が女性はイエの重要な構成員としている点は、力点はともかく女性を取り上げようとしていたことは見逃せない。
●今後の課題
総務庁の調査によると「収入労働と無収入労働の割合はおよそ6:4で収入労働65%が男性、35%を女性が担っているというが、賃金は女性が男性の半分からせいぜい6割しかもらっていないという。更に無収入労働の28.5%は家事労働で、そのうち93%強を女性が担っている」という。社会の半分以上の労働を女性は担いながら、収入面では男性よりもかなりの不利益を被っていることがわかる。
専業主婦や職業婦人などという言葉がなかった時代、女性が他家に嫁ぐのは努めだった。大方は、農家の嫁になった。嫁は農作業をの負担が軽減されないまま、妊娠出産を数回繰り返えすので身体を壊したり、命を縮めた女性は少なかった。こうした女性の身体的理由から、女性の労働力が半人前あつかいされる要因のひとつとなった。女性自身も家事と農作業の両負担があるのだから、さらに外で男と同じ労働量をこなすことは不可能だ。農家の女性は労働量で男性に大きな差があったわけではない。むしろ、家事・出産・育児という手間のかかるを仕事をこなす分、時間的には余計に働いているというのが本来の評価となるべきである。家事・育児・出産(生理)に拘束されない男性の方が、有利に仕事に取り組めるだけであった。家庭での役割を仕事時間に含めず、外での仕事だけが社会的な労働評価にされると女性の野良仕事は不十分に見えたかもしれないが、誰も主婦役割の負担を肩代わりするものはいなかった。半人前扱いされながら「仕方がない。嫁は皆辛いものなのだ」と同様な立場にある嫁たちと女性は無能との規定がされる旧憲法下ではじっと耐え慰め合うしかなかった。
前述の酒井いとさんのように、現金収入を得ることによって自分の立場を夫や姑の意思を測らなくても物が買えたるようになって初めて、イエの「嫁」という物言えぬ立場から解放されたのであろう。長い年季を耐えるような「イエ」構造では女性は、声にならない声で終わるだけだった。酒井さんのような逞しい「行商」女性の顔に輝きを見て、本来ある女たちのパワーは、出産・育児など女性の生理に対する不理解と不十分な医療が改善され、また旧憲法のような女性の無能力の定めがなければ男と同様に評価されていたに違いないのは明らかである。
旧憲法がつくられる以前の日本を描いた興味深い資料のなかに、ルイス・フロイス(1532−1597)の「日本史」がある。戦国時代から安土桃山時代の日本を30年以上に渡り記録していたイエズス会の宣教師である。彼はそこで図らずも、日欧女性比較を展開する。それによると、当時の日本の女性はヨーロッパの女性より積極的に社会参加し、経済的自立、読み書きが出来、1人で外出するので驚いている。その上に飲酒もするし、持参金を夫に貸す際に利息をつけたり、離婚を申したてることも目にしたという。彼の記録の元になる時期に京都に13年あまりいたと言うことは、京都の町屋の女性を見ていたに違いないので農村の女性達を語ったとはいえないが、幕府による統制で武家社会の規律が下々に影響を与える前の日本女性は耐えるばかりの姿ではない。さらに、原始狩猟採集社会の時代に遡って女性の有り様を考えるとその生活力の差は男性に勝っていたようである。放送大学の「フロンティア人間科学」の第6章を担当された伊藤公雄教授の放送授業によると男性が狩猟によって30%の食料を賄い、女性は採集によって70%を賄っていたというのである。自然の営みの中で糧をうる時代の生き方は、町屋社会より農業社会の形態にちかいと考えられるので、農村の女性達も生活力を持っていたので主張すべき事を主張できずにいたことはないだろう。
このように見てくると、女性の力が家庭に閉じこめられ、社会で認められにくくなっていくのは、徳川幕府の強力な社会体制が全国的に広められる過程をへて明治維新が起こり、幕末の志士が近代国家つくりに奔走した結果さらに女性に対する格付けが強められ、憲法化して活字にとどめられ決定的になったのだと推測できる。
したがって、明治以降の社会は出産・堕胎も社会を調整するために男の側の論理で女性を利用していった。イエの継承で男児を望み、労働力とするために石女は離縁され、富国強兵策で堕胎は禁止され、飢饉の際は間引きなどと称して嬰児を殺した。家の金策のために奉公に出されたり、身売りされるケースもあった。また戦乱の時代の女たちは、男の性の対象になる危険から保護されるためにもうしろ盾が必要になる。こうした状況では、筋力の勝る男性の優位は、ほぼ世界共通な現象である。戦時の混乱で暴力的になる男性と、その結果妊娠する恐れがある女性とでは、社会上の力関係において大きな開きができる。その上、生まれながらの優劣差であるがごとく宗教や法や社会慣習によって女性自身に思い込まされてきた。近代社会が形成されてると、教育の機会が女性にはあとまわしにされて男女の地位不平等はさらに広がる。生来的な能力差によって社会的優劣がきまっていったのではなく、身体的な条件、財産の継承、教育の機会などによって自律要因に差が起こったのである。
1999年、日本は男女共同参画年となった。女性の社会参加が奨励され、評価においても女性であることで冷遇されないよう時代の要求に耳を傾けるようになっていく措置がなされ始める。戸外で身体のを使っての活動が主だった時代から久しくなり、今は創造性や知的な活動が重視されるので筋力を伴わなくても仕事は可能である。現代の女性は、男性と同等に進学し、自分の能力を試す就職の機会にも恵まれ、若いうちに嫁ぐという社会からの強迫観念もなく、生まないという選択も可能である。女性であることの社会的マイナスは大幅に減ってきた。身体的、慣習的な呪縛から解き放たれた女性たちに持ち得る能力を十分に生かしていくことが社会のプラスになると時代が判断をくだした。
今後の女性たちが、21世紀に果たしていく責任とはなんだろうか。呪縛から解き放たれ、自由を謳歌し、能力に対する見返りを求めるだけにとどまってしまったら真の社会の発展は期待できない。行商の女性たちの優しく逞しい生き様、そして手の温もりや信頼を大切に商いした姿に人々の輪が出来た事にも何かの今後のヒントになるような気がする。
数世紀間、男性主導の世界が続いたが、男たちは少なからず、女、子供を守り、その子孫が繁栄する社会づくりを構想したのは違いない。近代日本を作る過程において、農村女性達が女工になり、賃金の安い、労働条件の悪い中で働き体をこわして亡くなったケースが多く実話として残っているが、今度は現代の日本男性が、その悲哀を再び味わっているようところが見受けられる。過労死は一年で一万件に上り、リストラ不況の影響と考えられる投身自殺が起きて電車が止まるのもこのところしょっちゅうである。仕事人間で家庭を顧みなかったと妻に判断された夫達は、熟年離婚のケースも多くなる。この変化も加わって、男性の自殺率は女性の自殺率をはるかに上回っていると前記の伊藤教授は説明する。、男性受難に変わってきているような所もある。
母性という社会を左右する性を持つ女性たちが、よりよい社会の発展に加わるのに、どのような心構えをもって世界を見据えるのか、本来ある力を自分だけでなく社会のためにどのように発揮させるか、それを試されるのが21世紀といえるのではないだろうか。農村の女性達に象徴される男女の不平等の扱いが、地域やその形態を変えて21世紀に残っていかないよう私たちは監視しなくてはならない。女性は母性を持つために、社会で活躍する際に課題が多いが、過去の女性たちが幾多の変化や試練に適応してきたのであるから、今後の女性はあらゆる機会を通じて能力を磨き、新世紀の課題に果敢に対応し責任を果たしていかなくてはならないだろう。未来の社会を一人一人が人間らしくあるために、自然を力(経済・軍事)や化学で支配するのでなく、今後は地球上の生命と共生出来る社会をめざして歩んで行かなくてはならない。
<参考資料>
A・スティーブンスの講演
「農村の女性;開発におけるパートナー」より国際交流フォーラム 「開発と女性」国際ネットワークを考える(1991年資料P46)
「東京行野菜行商と増田実日記」水津敦子(我孫子市民学級1998年度資料より)
「旧我孫子町における行商」水津敦子
我孫子市史研究第四号 我孫子市教育委員会1979年
「世界の女性'95 その実態と統計」国際連合日本統計協会
「ビジュアル歴史」東京法令
「常磐線歴史散歩」栗林忠義 鷹書房1989年
『現代民族学入門』吉川弘文館1996年
「家庭と地域社会」早稲田大学出版部1996年
「モノと女」の戦後史 有信道1992年
「農村生活の変容:女性を中心に−1920〜1954年−」板垣邦子 明石書店 1997年(「アジア女性史−比較史の試み」第1章)
「フロンティア人間科学」6章 ジェンダーと人間 伊藤公雄(放送大学放送授業)